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古代日本


▼解説

御名
雄略天皇
大泊瀬幼武皇子(おおはつせわかたけるのみこ):『日本書紀』
大長谷若建命 (おおはつせわかたけるのみこと):『古事記』
ワカタケル大王:埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘
倭王武:『宋書』倭国伝

生年
未詳
五世紀後半頃
西暦418年?~479年?

住所
泊瀬朝倉宮:奈良県桜井市
磐余宮
斯鬼宮
吉野宮

肩書
第21代天皇
治天下大王
倭国王
安東大将軍
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事

陵墓
高鷲丸山古墳(雄略天皇陵):大阪府羽曳野市
河内大塚山古墳(大塚陵墓参考地):大阪府松原市
岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵):大阪府藤井寺市

略歴『日本書紀』より抜粋
允恭7年12月
第19代 允恭天皇の第五皇子として誕生
安康3年8月
兄・第20代 安康天皇の敵討ちがてら葛城氏を滅ぼす
安康3年10月
従兄弟・市辺押磐皇子らを討つ
安康3年11月
泊瀬朝倉宮で即位
雄略元年3月
草香幡梭姫皇女 立后
雄略2年7月
百済池津姫事件
雄略4年2月
葛城一言主神と遭遇(そしてなぜか一緒に狩をする)
雄略5年4月
百済が友好関係のため倭に王族・軍君を送る
雄略7年8月
吉備稚媛略奪、吉備氏の反乱相次ぐ、第1次朝廷改革推進年
雄略9年3月
新羅を討とうとして失敗
雄略11年10月
第2次朝廷改革推進年(~16)
雄略20年冬
高句麗が百済を滅ぼす
雄略21年3月
任那の熊津を百済王に与え百済復興
雄略22年正月
白髪皇子立太子
雄略23年7月
病に臥す
雄略23年8月
崩御

政治制度
五世紀後半頃の大和朝廷の構造です。
政治制度
※部曲⇒所有する豪族の名で呼ばれる。
※名代⇒地方豪族支配下の農民を大王家に属するものとし、その代わりに「国造」や「県主」の地位を与え屯倉などの管理をさせた。大后や王子などの名で呼ばれる。

倭の五王の時代には中国南朝との交渉が多く、渡来人によって新しい文化や技術が導入されます。倭王武とされるワカタケル大王も例に洩れず、その時代の真っ只中で青春?を謳歌しておりました。『日本書紀』雄略天皇条では大陸渡りの技術を組織していく様子が伺えます。雄略紀にみる上図の★品部とよばれる技術者集団に関する記述を下記にピックアップしてみました。

★品部
穴人部:生鮮・魚貝・食肉の調理人[雄略紀2年10月]
史 部:雄略紀では「史戸」。朝廷書記官(史部)の物資・労役担当[雄略紀2年10月]
少子部:天皇の側近に奉仕する童子女儒らの育成を担当[雄略紀6年3月]
錦織部:機織りの技術担当[雄略紀7年8月]
鞍作部:大陸系の技術で馬具を製作する技術担当[雄略紀7年8月]
陶作部:須恵器の生産を担当[雄略紀7年8月]
畫 部:画工集団[雄略紀7年8月]
譯語部:通訳担当[雄略紀7年8月]
鳥養部:鳥の飼育係[雄略紀11年10月]
漢衣縫部:漢人系の衣縫の技術者。秦氏を伴造に任命[雄略紀14年3月]
韓鍛冶部:鉄器加工の技術者[記述ナシ]

■考古学資料による役職
熊本県江田船山古墳と埼玉県稲荷山古墳。 共に5世紀末~6世紀初の全く場所の違う二つの古墳から発見された鉄刀と鉄剣には文字が刻まれていました。その文字からは文献には無い役職名が確認できます。また、それぞれの文字からは「ワカタケル大王」の名が伺え稲荷山古墳鉄剣にある辛亥年が雄略天皇在位の年号であることから当時ワカタケル大王の支配権が九州から東国まで及んでいたことや漢字が使用されていたことなどが示唆でき画期的な時代の面影を伺えます。
※「獲加多支鹵大王」の「獲」は草冠が無いのが正しい漢字です。

江田船山古墳(熊本県)
副葬品:鉄刀(銀象嵌)
発 見:1932年
文字数:漢字75文字
大王名:獲□□□鹵(ワ□□□ル)大王
役職名:典曹人
職 務:書記を司る文人

稲荷山古墳(埼玉県)
副葬品:鉄剣(金象嵌)
発 見:1978年(出土は1968年)
文字数:漢字115文字
大王名:獲加多支鹵(ワカタケル)大王
役職名:杖刀人
職 務:大王の親衛隊

外交情勢
雄略天皇は倭の五王の「武」にあたる人物と考えられています。『宋書倭国伝』の倭王武の上表文には当時の王位継承の過程や国内平定の様子などが記述されており、それらの史料から倭の五王と宋との外交について下記にまとめました。

西暦421年 宋/武帝 倭王/讃
朝貢し官位授かる。

西暦425年 宋/文帝 倭王/讃
司馬曹達を遣して貢献する。

西暦425年 宋/文帝 倭王/珍
讃が死に、その弟の珍が立ち下記官位を自称する。
[使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事]
[安東大将軍][倭国王]
遣使貢献し下記官位を授かる。
[安東将軍][倭国王]
他13人に[平西・征虜・冠軍・輔国将軍]を授ける。

西暦443年 宋/文帝 倭王/済
遣使貢献し官位授かる。
[安東将軍][倭国王]

西暦451年 宋/文帝 倭王/済
官位追加。
[使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事]

西暦451年 宋/文帝 倭王/興
済が死に、その世継の興が立ち遣使貢献する。

西暦462年 宋/孝武帝 倭王/興
官位を授かる。
[安東将軍][倭国王]

西暦462年 宋/孝武帝 倭王/武
興が死に、その弟の武が立ち下記官位を自称する。
[使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事]
[安東大将軍][倭国王]

西暦478年 宋/順帝 倭王/武
上表文を奉じる。官位を授かる。
[使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事]
[安東大将軍][倭国王]

■「使持節都督○○○諸軍事」
この称号は中国の皇帝から授けられ「○○○」の部分にある国々の軍事を総督する武官であることを意味します。倭王武は自ら「七国諸軍事」を名乗りましたが宋に認められたのは先の倭王済と同じ百済を除いた「六国諸軍事」でした。百済は倭より先立つ事372年に中国から「百済王」の称号を得ており、中国側としては自ら冊封している国の軍事総督権を倭王に与える事はできなかったようです。しかし上表文を送ったり自ら七国の軍事総督権を求めたり積極的な倭王武の姿勢が読み取れます。「秦韓・慕韓」などの聞き慣れない国々もありますが朝鮮半島南部にまだ色々な小国があった時代だった事が伺えます。

■東アジア略年表
西暦371年
百済は平壌を攻め高句麗の故国原王を戦死させる。
西暦372年
百済は「東晋」に朝貢し冊封される。
西暦404年
高句麗の南下政策に対し、朝鮮半島南部と縁の深い倭も半島に出兵するが撃退される。「好太王(広開土王)碑文」より
西暦415年
高句麗と新羅の交渉が深まる。
西暦418年
倭の人質であった新羅王弟が逃走。新羅へ帰国。
西暦420年
百済・高句麗、中国南朝の新王朝「宋」から官号を薦められる。
西暦421年頃
高句麗、新羅を臣従関係におく。
西暦427年
高句麗、集安から平壌へ遷都。
西暦429年
百済王権分裂。親倭派が後退し親新羅派が台頭する。
西暦433年~
百済は新羅と友好関係を結び高句麗とも交戦を止める。
西暦435年
高句麗、中国北朝の「燕」と抗争する「魏」に接触。
西暦439年
北魏が中国北朝を統一。高句麗は中国南朝の宋にも遣いを送り二面外交を行う。
西暦450年
高句麗の兵士が新羅人に殺される事件を機に新羅は高句麗から離脱し自立しようとする。
西暦455年
高句麗が百済へ侵攻。新羅が援軍を送って百済を助ける。
百済・蓋鹵王即位。再び高句麗と抗争関係に、親倭政策を取る。
西暦461年/雄略5年4月
蓋鹵王の弟・昆支王を倭王の元へ送り援兵を要請。
西暦468年~/雄略8年2月頃
百済・新羅 vs 高句麗
西暦472年
蓋鹵王が北魏に高句麗討伐を請うが応じられず、これを機に百済は北魏への朝貢を断つ。
西暦475年/雄略20年冬
高句麗が百済の都・漢城を陥れ蓋鹵王を殺害。その弟の文周王が即位。新羅に救援を請い、倭王武に周王の即位承認と支援を求め、倭はこれに応じた。
西暦477年/雄略21年3月
百済、熊津に遷都。
西暦479年/雄略23年4月
倭にいた昆支王の子が百済に帰国し、東城王として即位。

朝鮮半島の目まぐるしい動向からは陸続きの国々の存亡には島国日本には考えられないような戦いや駆け引きがあったこと示します。その中で高句麗の外交手腕には目を見張るものがあります。南朝北朝の両面外交により背後を固め新羅や百済を時には味方に時には敵に巧みに南下政策を取っています。

国内情勢
雄略朝以前における政治体制は、朝廷と各豪族との交流・共存の時代でした。四、五世紀は葛城氏を軸に豪族達はブイブイ言わしてたのでしょう。雄略天皇の時代に朝廷はそれまでの豪族や地方勢力との連合関係から従属関係へと変化して行きます。天皇の専制化と統一国家への過渡期であったのです。そんな事をするから当然豪族たちから摩擦が出ます。
当時の中央豪族の雄・葛城氏。地方豪族の雄・吉備氏。雄略朝前後の『日本書紀』に彼らが関わる血生臭い記述があるのはこれらの摩擦の投影なのでしょうか...

■『日本書紀』吉備氏の伝承
雄略7年8月
吉備弓削部虚空が郷里(現・岡山県)に帰った時、吉備下道臣前津屋が天皇を呪詛し、様々なまじないをやっていた。天皇はこれを聞いて怒り、物部兵30人を遣わし前津屋とその一族70人を殺した。
雄略7年
天皇は、吉備上道臣田狭がその妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、田狭を任那国司に任命し、その間に稚媛を自分の妃にしてしまった。それを知った田狭は怒り、当時、日本と不和であった新羅と通じようとした。天皇は田狭の子・弟君と吉備海部直赤尾の二人を新羅に遣わして事態を収拾しようとするも、弟君は百済にて天皇に背き、国に忠義深い弟君の妻・樟媛が弟君を討ち、一連の叛乱は終結した。
雄略8年2月
新羅は天皇が即位してこの時に至るまで高句麗と結び日本とは不和であったが、高句麗との諍いにより離反し任那を通じて日本に救いを求めて来た。この時、吉備臣小梨らが新羅救援に向かった。
雄略9年3月
天皇は新羅討伐に紀小弓宿禰らを派遣したが小弓宿禰は病死し、その妻・吉備上道采女大海が大伴室屋に夫の墓を作ることを依頼した。
雄略23年8月
清寧即位前紀征新羅将軍・吉備臣尾代が吉備国で天皇崩御を知り、率いていた蝦夷等500人が叛乱を起こしたが尾代がこれを鎮圧した。 天皇崩御後、星川皇子が母・稚媛の奨めで皇位を狙う。しかし大伴室屋大連と東漢掬直が軍を率い、大蔵を占領した星川皇子をその母、兄弟もろとも焼き殺した。また星川皇子の乱に加担しようと吉備上道臣等が船団40艘を率いて大和へ向かったが星川皇子が既に討たれたと知って引き返した。清寧天皇は上道臣を責め、その領土を奪った。

↑『日本書紀』の吉備氏関連の記事をかいつまんで取り上げました。以上を見ると朝鮮半島で起こる事件との関わりが多いように思います。吉備氏は現在の岡山県から広島県東部の吉備地方を拠点とする地方豪族でした。「海部直」は同地方の海辺を管理した豪族であり、また清寧即位前紀の星川皇子の叛乱記事で船団を率いた記事がある事から吉備氏は航海に長けた一族であったと伺えます。瀬戸内海の要衝を占めた地理的条件は四、五世紀における朝鮮進出の派遣路として重要であったのでしょう。

■葛城氏と吉備氏
『日本書紀』雄略7年には吉備稚媛略奪事件が記載されていますが「ある本に云はく…」と異伝があり稚媛の血縁関係に異説があります。わかりやすいように系図を書いてみました。 吉備氏系図
雄略天皇の人妻略奪の汚名を雪ぐ為にも「異伝」を支持したいものです。異伝では葛城氏と吉備氏には婚姻関係があったのが分かります。もしこの関係が事実であったら朝廷にとって脅威です。葛城氏も吉備氏も雄略天皇の時代に叩かれて以後、勢いを取り戻す事はありませんでした。雄略天皇は伴造の家柄の大伴・物部両氏を重用し朝廷内の組織をまとめ強化し豪族の摩擦や朝鮮半島の動乱に対処して行ったのでした。

参考文献:石原道博編訳『魏志倭人伝・宋書倭国伝他二編』岩波文庫/井上光貞著『天皇と古代王権』岩波現代文庫/『日本古典文学大系67日本書紀・上』岩波書店/『新詳日本史図説』浜島書店/『詳説日本史』山川出版社社
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