Menu

古代日本


▼歌謡

『万葉集』より
巻1-1
籠もよ み籠持もち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名を

■口語訳
美しい花籠と万能スコップを持って この丘で菜を摘んでいるお嬢さん あなたはどこの家の人ですか? 教えておくれ ここ大和の国のことごとくは私が支配しているのです その私になら教えてくれるでしょう あなたの家も名も
雄略天皇万葉歌碑
■ひと言
『万葉集』の冒頭を飾る雄略天皇の歌です。
雄略天皇の歌と言っても実際に雄略天皇が詠んだわけではなく、古くから伝わる歌を『万葉集』編纂の際、雄略天皇の作とした、というのが一般的な見解です。
この時代、女性に名前や住んでいる所を聞くこと=求愛で、名前を尋ねて答えてもらえばお付き合いOKということでした。
さりげなく「私は大和の王だ」と主張しているようにも取れ、ほのぼのとした求婚にも取れるこの歌は、古代から人々に愛された歌の一つだったのでしょう。この歌の作者に相応しい人物として『万葉集』編纂時の人々の記憶に残っていたのが雄略天皇だとすると、やはり雄略天皇は「大和の大王」の代表的人物として、また「恋多き大王」として人々に畏れ愛され語り継がれてきたに違いありません。そして、その記憶は今日までも続いているのではないでしょうか。
巻9-1664
夕されば 小倉の山に臥す鹿は 今夜は鳴かず 寝ねにけらしも

■口語訳
夕暮れになると 小倉の山で寝る鹿は 今宵は鳴かない もう眠ってしまったようだ

■ひと言
雄略天皇の御製歌とされていますが『万葉集』はこの歌に「別本によると、この歌は岡本(舒明)天皇の作となっていて正確な事は分からない。故に雄略天皇の御製として重ねて掲載した」という注意書きがあります。 問題の舒明天皇御製歌は以下の通りです。

巻8-1511 舒明天皇
夕されば 小倉の山に鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも

「小倉の山」は奈良県桜井市近辺の山らしいですが諸説あり具体的にどの山のことを指しているのか分かりません。歌の作者も場所も詳細は不明です。

『古事記』下巻より
日下部の 此方の山と 畳籠 平群の山の 此方此方の 山の峡に 立ち栄ゆる 葉広熊白檮 本には いくみ竹生ひ 末方には たしみ竹生ひ いくみ竹いくみは寝ず たしみ竹たしには率寝ず 後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ

■口語訳
日下のこちらの山と 平群の山のあちらこちらの山と山の間に 繁り立つ葉の広い大きな樫の木よ その樫の木の根元の竹は枝を交わらせてこんもりと繁り その樫の木の梢の竹はたくさんの葉を繁らせ その根元の竹のように手足を交わらせて二人で寝ることも無く その梢の竹のように愛を確かめあって共寝することも無く… 後には必ず手足を交わらせ二人で寝よう 私の愛しい妻よ ああ

■ひと言
大長谷大王(雄略天皇)は長谷朝倉宮(現:奈良県桜井市朝倉)に住んでいました。
正妃・若日下王女が住む日下(現:大阪府東大阪市日下町)へ妻問いに訪れた時のことです。 途中、河内の志紀(現:大阪府八尾市志紀町)にて皇居や神社にしか許されていない建築構造の家を見つけ大層怒り、その家を焼き払おうとします。家の主は恐れおののき許しを請い白い犬を献上すると大王はその犬を妻問いの結納品としました。
さて、日下へ到着した大王に若日下王女はこう伝えます。「日に背を向けて御出でになったのはたいへん畏れ多い事です。私が朝倉宮に参りお仕えいたします。」そう言われて名残惜しくも一旦、朝倉へ帰る時に詠んだのがこの歌です。
御諸の 厳白檮がもと 白檮がもと ゆゆしきかも 白檮原童女

■口語訳
三輪山の神聖な樫の木よ その樫の木のように 畏れ多く 言い寄りがたい老女になってしまった女よ

引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも

■口語訳
引田の栗の若木のように 若い時に 共寝をしたかったが 私もそなたも盛りをすぎてしまった...

■ひと言
ある日、大長谷大王(雄略天皇)が三輪川(初瀬川の下流で三輪山辺り)を散歩していると川で洗濯をしている娘がいました。その娘があまりにも美しかったので例に洩れず大王は娘の名を尋ねました。娘は「私は引田部の赤猪子(あかいこ)と申します」と答えます。そこで大王は「そなたは誰にも嫁がずにいなさい、近いうちに私が宮へ召そう」と言って朝倉宮へ帰っていきました。赤猪子は大王のいいつけを守り、お召しがあるのを待っていましたが、いつまでたっても宮からの使者はやって来ません。それでも待ち続けているうちに80年が経ちました。ここにきてようやく赤猪子は自ら朝倉宮へ赴きましたが、その容姿は年老いて大王は赤猪子のことが分かりません。赤猪子の恨み言を聞いてやっと彼女と彼女への言葉を思い出しましたが時既に遅し、自分のいいつけを守って娘盛りを虚しく過ごした事への憐れみと、最早お互い老い過ぎて共寝できないことを残念に思って詠んだ歌です。
呉床座の 神の御手もち 弾く琴に 舞する女 常世にもがも

■口語訳
呉床にお座りの 神の手が 弾く琴の音にあわせて 舞を舞う乙女よ その美しさが常しえであってほしいものだ

■ひと言
大長谷大王(雄略天皇)が吉野宮へ行幸した時、吉野川のほとりで大変美しい乙女と出会いました。例の如く大王はその娘に声をかけ吉野にて共寝して朝倉宮へ帰っていきました(何しに来たんだ)。
後日、吉野宮を訪れた時に再びその乙女と会い大王は呉床を構えて座り自ら琴を弾き乙女に舞を舞わせました。その舞姿がとても美しく御気に召したのでしょう。その時に詠んだのがこの歌です。赤猪子の時と同様、大王は美しい乙女と川辺で会うことが多いです。
み吉野の 袁牟漏が嶽に 猪鹿伏すと 誰ぞ 大前に奏す やすみしし 我が大君の 猪鹿待つと 呉座に坐し 白栲の 衣手著具ふ 手腓に 虻かきつき その虻を 蜻蛉早咋い かくの如 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ

■口語訳
吉野の 袁牟漏が嶽に 猪や鹿がたくさんいると 誰かが 大王に言上したのか 大王は 猪や鹿の現れるのを待って 呉座に座っていたところ 白い服の袖の上から 大王の腕に 虻が噛み付いた その虻を 蜻蛉が素早くくわえて飛んでいった このように 蜻蛉のその名を受けて この大和の国を蜻蛉島と言う

■ひと言
大長谷大王(雄略天皇)は吉野がお気に入りだったようです。
持統天皇も吉野宮滝に離宮を構えていましたが『古事記』で吉野に度々行幸するのは大長谷大王が初めてです。そんな吉野の地で獲物がたくさん獲れる場所があると小耳に挟んだ大王は狩りに出かけます。その地で呉座を構えて座っていると腕を虻に刺されました、が次の瞬間トンボがその虻をくわえて飛んでいきました。無礼にも大王の腕に喰いついた虻を退治したトンボを大王は称賛し、その時以来その地を阿岐豆野(あきづの)と呼ぶようになりました。
日本には「秋津島」という別称があります。トンボは銅鐸などに描かれ古代からこの国で称えられていた昆虫で、トンボを「蜻蛉」と書いて「あきづ」と読ませ「蜻蛉(秋津)島」と結びつけた古代のこの国の言葉にとても好感を覚えます。
やすみしし 我が大君の 遊ばしし  猪の病猪の 唸き畏み 我が逃げ登りし  在丘の 榛の木の枝

■口語訳
我が大王が射られた 猪の 手負いになった猪の 怒れる唸り声が恐ろしくて 私が逃げ登った この丘の 榛の木の枝よ

■ひと言
大長谷大王(雄略天皇)が葛城山で狩りをしていた時のことです。大王は獲物の猪に向かって矢を放ちましたが仕留め損ね、怒り狂った猪が恐ろしい唸り声を上げて大王に突進してきました。手負いの獣ほど始末の悪いものはありません。大王は慌てて近くの榛に登り難を逃れました。その時に詠んだのがこの御歌です。
『日本書紀』でも類似のエピソードがあります。
突然、雄略天皇の狩りの一行に怒り狂った猪が突進し舎人たちは恐ろしさのあまり天皇の警護も忘れて我先に木に登りました。天皇は突進して来る猪を弓で刺し止めて足で踏み殺します。そして次に警護の任を放棄して逃げた舎人を斬り殺そうとした時に舎人が詠んだのがこの歌です。

『日本書紀』巻第14-雄略6年春
やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の 怒聲畏み 我が逃げ登りし 在丘の上の 榛が枝 あせを

『日本書紀』の雄略天皇は勇ましいです。
媛女の い隠る岡を 金スキも 五百箇もがも すき撥ぬるもの

■口語訳
乙女が 隠れた岡を 金スキが たくさんあれば その岡をすき撥ねて 乙女を探すのだがなぁ

■ひと言
大長谷大王(雄略天皇)が丸邇の袁杼比売(おどひめ)の求婚に春日へ出かけた時の事です。
途中、お目当ての袁杼比売と大王の一行がバッタリ出会ってしまい驚いた比売は慌てて丘のほとりに隠れてしまいました。その時大王が詠んだのがこの歌です。
袁杼比売は『日本書紀』では春日童女君という名で登場します。雄略天皇の采女でちょっとヒドイ扱いを受けてます。それに比べ『古事記』の袁杼比売は大王に妻問いしてもらったり他の后妃のように結婚の背景に悲劇的な事件もなくなかなか幸せな女性です。
ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領布取り懸けて 鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て 今日もかも 酒みづくらし 高光る 日の宮人 事の語言も 是をば

■口語訳
ももしきの宮の人々は ウズラのように 領布をかけて セキレイのように 裾摺り合せ 庭スズメのように 群がりあって 今日も 酒宴を催しいるのだな 光輝く日の宮の人々は 事の語りを このように

■ひと言
新嘗祭の宴にて三重の采女が大長谷大王(雄略天皇)に御酒を献上した時の事です。
采女が捧げる杯の中に偶然欅の葉が入ってしまいました。それに気付かず采女は大王に御酒を差し出してしまいます。欅の葉に気付いて大王は「こんな酒が飲めるかーっ!」くらいの勢いで怒り、粗相をした采女を御手打ちにしようとしました。恐れ慄きながらも采女は杯の欅の葉を上手く比喩に使った大王を称える歌を詠み許しを得ます。頭の回転の早い賢い采女だったのでしょう。大王もその歌と機転を気に入り采女を許しただけでなく褒美の品さえ与えました。その時に采女に返したのがこの歌です。
水灌ぐ 臣の嬢子  秀樽取らすも 秀樽取り 堅く取らせ 下堅く  彌堅く取らせ  秀樽取らす子

■口語訳
御酒を奉る乙女が 立派な酒瓶をお持ちだよ しっかりお持ち 手にしっかりと しっかりとお持ちなさい 立派な酒瓶をお持ちの乙女よ
豊楽
■ひと言
新嘗祭にて袁杼比売は大長谷大王(雄略天皇)に御酒を献上しました。その時に大王が比売に詠んだのがこの歌です。これは単に酒を勧める時の歌でもあるようですが酒宴の席で比売に対して大王の気遣いのようなものが伺えます。

『日本書紀』より
巻第14-雄略天皇六年春
隠国の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走り出の よろしき山の 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗し あやにうら麗し

■口語訳
泊瀬の山は 家から出てすぐの所に見える素晴らしい山である 家から走り出てすぐの所に見える素晴らしい山である 泊瀬の山は なんと美しい なんとも言えず美しい

■ひと言
雄略天皇、絶賛の泊瀬山でございます。朝倉宮のすぐ傍を流れる初瀬川辺りの展望の良い所で泊瀬地域の山々のこと詠んだ歌でしょう。雄略天皇は畳々なづく青垣深い山々を見て感無量になったのでしょうか。尊大で崇高な雄雄しい山々を前にした時は畏れさえ抱きます。そこに近寄りがたい神々しさも見るのでしょう。また泊瀬の枕詞の「隠国」も神々の鎮座する鬱蒼とした山深くを連想させとても素敵な日本語です。
『日本百名山』で有名な深田久弥氏は「日本人は誰しもふるさとの山を持っている」という言葉を残しています。雄略天皇にとってふるさとの山は隠国の泊瀬の山だったのでしょう。(ちなみに私は生駒山です。)
巻第14-雄略天皇十三年秋
ぬば玉の 甲斐の黒駒 鞍著せば 命死なまし 甲斐の黒駒

■口語訳
甲斐の黒駒に 鞍を着けていたならば 命はなかったであろう なあ 甲斐の黒駒よ
甲斐の黒駒
■ひと言
雄略天皇は在世中、様々な職業部署を整理し先端技術の導入や産業の能率・生産性の高上に努めていました。その中に手斧で木を削る時に土台の石に斧の刃を当てるような失敗が全く無い腕の良い“眞根”という名の木工職人がいました。
ある日、天皇が職業部署を見回っていた時のことです。天皇は眞根に「誤って土台の石を傷つける事はないのか?」と尋ねました。「決してありません」と眞根は答えます。そこで天皇は裸の采女を集め作業中の眞根の目の前で彼女達に相撲を取らせ眞根がその光景に目を奪われ手元が狂い土台の石を傷つけてしまうと天皇は自分に偽りを騙ったと叱責し眞根を処刑するよう命じました。眞根の処刑が執行される時、他の工人達は眞根を惜しんで天皇に命乞いをします。その嘆願を聞いた天皇は考え直し甲斐から連れて来た足の速い黒駒で処刑場に駆けつけ処刑を中止させました。 その時に詠んだのがこの歌です。「誤って人を殺す事が多い」と言われる所以の一つの物語でありますが今回は未遂に終わったようで良かったです。
▲top